日本の玄関である成田空港の歴史は、空港反対派との激突の歴史でもあります。近隣住民に極めて配慮した空港運用は、時に新規航空会社や新路線の就航を阻んできました。しかし、そうした状況が大きく変わってきています。

成田空港の構想が生まれたのは1960年代です。

日本の国際化の進展とともに、首都圏で唯一の空港だった羽田空港のキャパシティ不足が早くから指摘されていました。これ以上羽田空港を拡大するには海上の埋め立てが必要だが、埋め立てには巨額の費用がかかる。こうして国際線専用の新空港の立地として、白羽の矢が立ったのが、千葉県成田市の三里塚地域でした。

日本は、土地収用(公共目的のために、土地の所有者の意向とは関係なく国や自治体が買い上げること)に関する法律はありましたが、三里塚の住民が、住み慣れた土地を追われることに反対、そしてその反対運動を左派過激派が応援したことで、空港建設は泥沼化し、多くのテロ事件が起こりました。

そして空港が開港となった1978年以後もテロは続きます。2016年まで、成田空港に入る車の検問、ならび電車でやってくる人のチェックが行われていたのも過激派対策が必要だったからです。

時は流れて、1999年に東京都知事に就任した石原慎太郎さんは、羽田空港の国際化を進めました。首都圏のほとんどの国際線が成田空港からの離発着で、東京の中心部や東京西部から著しく遠い成田空港は、利便性が悪かったためです。2010年からは羽田空港の国際化が開始され、多くの利便性を求める利用者が、成田から羽田に移りました。

かつては成田空港に反対していた地元住民や自治体も、成田空港の地位がいざ低下すると、200億円を超えるといわれる地元自治体に対する固定資産税、ならび4万人を越える成田空港の雇用に影響がでるためです。

よって、これまでのような反対一辺倒ではなく、便数の増加、離発着条件の緩和などが受け入れられやすくなっています。また、過去に比べて、技術の進歩により飛行機自体の騒音が減ってきたことも、理由としてあげられます。住環境の悪化はかつてほどではなくなり、それより経済環境、雇用維持の方が重要なトピックになったのです。

今後は、ビジネス客や時間のない人は便利な羽田、時間にゆとりがある人や格安航空会社は成田、という流れが促進していくことが予想されています。利用者としては、便利で安全な空港であり続けてほしいと願います。

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